院長プロフィール
私のプロフィールを簡単にご紹介。
昭和56年3月29日生まれ。O型。
東谷小学校時代には、少年野球クラブ「東谷ハンターズ」に所属。主にサードを守り、1番を打っておりました。とても楽しいクラブで、いまだにこのころの友達と遊んでいます。私はサードに飛んできた最初のゴロを処理する際、決まってファーストに暴投することで有名でした。1回暴投するとその後はまっすぐ投げられるという不思議な選手でした。私の暴投はほぼ毎回でしたので、みんな「あ〜またか。」みたいな感じで許してくれていたように思います。1番の思い出は6年生の夏のリーグ戦、対大和少年野球団戦で放った2本のホームランです。1本目は満塁ホームラン、2本目はサヨナラホームラン、のはずでしたが、なんと審判の得点付け間違いにより同点ホームランに。私のガッツポーズはなんだったのでしょう。返して欲しいです。
小学校時代のケガー右外果(外くるぶし)剥離骨折、野球肘、足関節捻挫
東谷中学校入学。中学校ではバスケ部に所属。思いっきりスラムダンクブームに乗りました。バスケ部時代の友達ともいまだによく遊んでいます。バスケ部時代の思い出はあまり思いつかないので、あまり活躍もしていなかったのでしょう。
中学校時代のケガー左小趾(足の小指)骨折、オスグッドシュラッター病、頭部裂傷(2針縫う)
北陵高校入学。なぜかまた野球がしたくなり、野球部入部。ここで私の人生に関わる大きな出来事が起こります。入学してしばらくの心電図検査で引っかかり、不整脈によりまさかのドクターストップ。部活やマラソンは禁止されました。その後、国立循環器病センターで精密検査を受け、運動可能との診断を受けるも、校医の先生からは運動許可がもらえませんでした。あえなく、野球部退部。悶々とした日々を過ごします。3年生になり、今後の進路を考えるように。私はスポーツが好きなのにできなかった経験から、スポーツ選手を支える仕事を目指そうと思い立ちます。色々と調べていると、スポーツトレーナーの中で鍼灸師が一番多いことを知り、この道を目指すことになります。
高校時代のケガ、疾患ー腰椎椎間板ヘルニア、不整脈
関西鍼灸短期大学入学。鍼灸の勉強をしながら、スポーツトレーナーとしての勉強もしました。大阪府泉南郡熊取町まで片道2時間半かけて通学。これにより、電車でどこへ行くのも苦じゃなくなり、すごくフットワークの軽い人間になったと思います。スポーツ好きの私は、何を思ったかボクシングがしたくなり、森岡ボクシングジムに通い始めます。ここで、どっぷりボクシングにはまります。平日は朝5時に起きて、ロードワーク。6時すぎに家を出て、学校帰りに19時頃からジムに通い、土日は11時〜23時までピザーラでバイトをする、という今考えるとものすごい生活をしていました。そのおかげで、長時間働く体力・精神力が養われたように思います。ジムに半年ほど通った頃、アマチュアの試合に出ることが決定。人生初の減量を行います。地獄でした。日に日に体がカサカサになり、まず汗が出なくなり、その後尿が出なくなり、最後にはツバも出なくなりうまくしゃべれなくなります。唇も乾燥し、パカパカ切れます。それでも毎日ジムに通い練習です。またここで、大きな出来事が起こります。なんと、スパーリング中にパンチを受け急性硬膜下血腫(脳内出血)になり、救急搬送。東保脳神経外科に3週間入院することになります。幸い、出血量が少なかったため、手術はせず、点滴で止血剤を入れるのみで回復。それでも、最初はICUに入りました。うまくしゃべれない、物事が思い出せない時期もあり、とても怖かったことを覚えています。当然、ボクシングはやめることに。現在は、月1回森岡ボクシングジムにて選手たちの体のケアを行っています。
大学時代のケガ、疾患ー左大転子(大腿骨)強度打撲、急性硬膜下血腫
この後は、院長経歴ページに記した通りです。
振り返ると、ケガや疾患を多く経験した学生時代でした。しかし、色々なケガ、疾患を経験したことにより患者様の痛みや辛さは、経験していない方よりはわかると思います。高校時代に夢見たスポーツ選手を支える仕事に1歩ずつ近づきながら、地元の皆様を健康で元気にするというもう1つの夢に邁進できていることに感謝いたします。
てらだ鍼灸院
寺田拓未